21世紀末、最高の文明を誇る世界。 その文明社会の陰の礎となり、人知れず世界の闇に存在する異形、《魔》と呼ばれる存在と戦い続けてきた来た者達がいた。 卓越した戦闘技能を以って《魔》と戦い退ける者、《退魔師》と呼ばれる彼等を纏め上げる一族に生まれ、その長たる総帥となる宿命を背負った少年、華神京也。 しかし、京也は、その宿命に縛られる事を厭い、未だ自らの責務を果す覚悟を持てずにいた。 そんな、京也に対し、彼の武道の師である榊和泉を始めとする一族一党の者達の多くは理解を示し、その支えとなる事を望んでいた。 自らの宿命を受け入れられず、そして、その責務の重さに心惑う京也の心には、嘗て、突然の別離をもって失った存在への愛憎が大きな陰として今も残っていた。 自らの存在に課せられた宿命に惑う京也を嘲笑うが如く、彼の前に一族と因縁の深き宿敵、世界に混乱を齎す存在たる秘密結社の刺客が現れる。 その存在が操る《流血の邪神》の力に苦しむ京也の想いが、永き封印にその身を縛られし特異の存在《戦女神・マナ・フィースマーテ》を解き放つ。 その邂逅こそが、京也と《マナ》の運命の物語の始まりであった。

2007年12月1日土曜日

第二話・邂逅

 京也は、榊の自分に対する思い遣りを踏み躙るようにして去って来た事に、大きな自己嫌悪と罪悪感を抱きながら、住み慣れた高野町の市外通りをとぼとぼと歩いていた。
 そんな京也の沈んだ気持ちを映すかの如く、空の様子も暗澹たる雲行きへと移り変わって行く。
「夕立でも来るかな・・・」
 独りごつる京也の瞳に、家路を急いで歩みを早める者達や、慌て気味に路地へと並べてあった商品を片付け始める露店商達の姿が映る。
「ど、泥棒だ!誰か、捕まえてくれっ!」
 前方から聞こえてきた突然の叫び声、それに反応して自分の方へ猛然たる勢いで走って来る男の姿を捉えた京也は、ゆっくりとした動作で持っていた荷物を足元へと置いた。
 そして、露店商から盗んだのであろう手提げ金庫を手にした男の前に立ちはだかる。
「莫迦が、退けっ!」
 男は、目の前に立ちはだかる京也の意図を計り知ると、その正義を嘲笑って、持っていた手提げ金庫で殴り掛かって来た。
 京也は、相手の攻撃を一瞥で見切ると、何気無い行為の如くその懐へと踏み込み、振り降ろされた腕を掴み取る。
 そして、京也がその身体を廻らせた次の瞬間、男は地面へと組み伏せられ気絶していた。
 柔術の投げ技の一つと良く似ていながら、決して相手に受身を許さない点で、それと大いに異なる《神武流》の奥義の一つである技、《雷鬼》。
 京也が繰り出した電光石火の早業に、騒ぎを聞いて足を止めて見守っていた人々は、誰もが驚嘆して言葉を失っていた。
 そんな衆人の反応を余所に、京也は、気を失っている泥棒の手から手提げ金庫を取り上げると、他の人々と同じ様に呆然としていた被害者の露店商へ、それを差し出す。
「最近は、この街も随分と物騒になったみたいですね。これからは気を付けてください」
 京也は、そう告げて手提げ金庫を露店商に返すと、置いてあった自分の荷物を拾い上げ、その場から去ろうとした。
 その京也を慌てて露店商が呼び止める。
「待ってくれ、君!是非、お礼をさせてくれ」
「礼には、及びませんよ。特別な事をした訳ではありませんから、気にしないでください」
 一応、呼び止められて振り返った京也だったが、本心からその言葉通りに思っていたので、応え終えると再び背を向けて歩き出した。
「君にとって当然な事だとしても、助けられて、何のお礼もしなくては、私の気持ちが納まらん。ちゃんと、お礼をさせて貰うぞ」
 露店商の男性は、そう告げると、京也の腕を取って、半ば強引に自らの露天へと連れて行く。
「自慢にならないが、こういう商売なんで、特別な謝礼なんて出来ない。という訳なんで、せめてもの気持ちとして、ここに在る品物のどれでも、気に入ったヤツを一つ君に上げよう。遠慮せずに一番高そうな物を選ぶと良い。と言っても本当に高価な物なんて、一つも無いかも知れないがね」
 自らの売る品物達を前に、苦笑交じりにそう言う露店の主につられて、京也も苦笑を浮かべた。
「(確かに、どれもそれなりの年代を経ているが、殆んどは模造宝石か非稀少石を使ったアクセサリーばかりだな・・・)」
 京也は、心の中でそんな即興の鑑定をしながら、目の前に並ぶ数十点の品々を見回して行く。
 何の気なしにそんな行為を続けていた京也は、陳列されたアクセサリー群の内の一つに、自然と意識を奪われた。
 それは、明らかに模造宝石と分かる材質の飾り石を使った首飾りだったが、その青玉(サファイヤ)に似た石からは、本物に勝る魅力的な力(パワー)が感じられた。
「おじさん、本当にどれでも貰って良いんですよね?ダメなら買いますけど」
「ふむ、男に二言は無い。それがどんなに高価な物だと分かっても、後から『返せ』などと言ったりはせんし、無論只で良いに決まっておるよ。気に入った物が在ったみたいで何よりだ」
 露店の主は、京也の言葉に含まれた熱を感じ取ると、満足そうに笑って応える。
「ええ。では、これをください」
 京也は、そう告げて伸ばした手の指で、先刻、心奪われた青玉の首飾りを指し示した。
「それは、《封神の守護石》と呼ばれているモノだよ。私がその石の前の持ち主から、それを譲り受ける時に聞いた話によると、その石には、勇敢なる戦士を戦場で護る不思議な力が在るらしい。先刻の事から察すると、君も武術を嗜んでいるみたいだし、その石の加護を受けられるかもしれないな」
 露店の主は、何処か冗談めかした表情でそう語ると、首飾りを手に取り、京也へ手渡そうとする。
「(《封神の守護石》、か・・・。確かに、この石からは、優しくも厳しい、そんな凛としたモノを感じる。そして、何故か言いようの無い寂しさも・・・)」
 心の中で、そんな事を感じながら、差し出された首飾りへと伸ばした指が、それに触れた瞬間、京也は、一瞬、全身に電流が走った様な感覚に捉われる。
 それは、正確に言えば、肉体ではなく魂を激しい力の奔流によって揺さ振られる、そんな衝撃であった。
『ココハ嫌、暗クテ寒イ・・・。心マデ、凍エテシマイソウ。誰カ、私ヲ、ココカラ解キ放ッテ・・・。私ハ、コノ永遠ト続ク戦イノ宿命ニ、モウ耐エラレソウニ無イ・・・』
 京也は、突如として語られたその言葉に、驚き言葉を失いながらも、半ば無意識に首飾りを自らの手に握り締める。
 その不思議な声は、確かに京也の掌中にある首飾りの石から聞こえて来たモノであった。
「如何かしたのかね?」
「貴方には、聞こえなかったのですか?」
 驚きに固まる自分の姿を訝る露店の主の尋ねに対し、京也は、反対にそう尋ね返した。
 何の事か分からずにいる相手の視線に応えて、京也は、再び口を開く。
「今、この石から不思議な声が聞こえませんでしたか?」
「否、残念だが私には、聞こえなかったよ。だが、先刻も話した様に、その石には不思議な力が在るみたいだ。そして、
その石の加護を受け護られた人間は、時に石が自分に語り掛ける事があったと言っていたそうだ。だから、君がその石の声を聞いたというならば、それは紛れも無い真実で、そして、君には、その石が持つ不思議な力の加護を受ける資質が在るのだろうね」
 先刻に話したのと似た言葉を語る露店の主の言葉は、その時には無かった純粋な何かを信じる想いを含んでいた。
「(護りの加護か・・・。それにしては、先刻の言葉は余りにも弱弱しかった・・・)」
 自分だけに聞こえたその不思議な声について思い返した京也は、その声に在ったのは、孤独にも似たモノだったと感じ、それを甦らせて切なさすら覚えていた。
 それに対する応えのようなモノを求めて、《封神の守護石》を見詰める京也に、石が再びその何かを語る事は無かった。

 予感通りに降り出した夕暮れの雨、それを凌ぐため京也は、街の一角にある鎮守の社の下に雨宿りしていた。
 まだ止む気配の無い雨空を不意に仰いでいた京也は、先刻からその胸に嫌な胸騒ぎを感じていた。
 それは、まるで『悪意』という名の生き物に見詰められている様な、危険で居心地の悪い感覚であった。
「気の所為か・・・」
 誰かが何処かで本当に自分を見つめているのではないか、そんな事を考えた京也だったが、周囲に他の誰かが居る気配は感じられなかった。
 一向に晴れないその胸騒ぎを、暗澹とした天気の為だと思おうとする京也の前に、突然、一人の男が現れる。
 特別な警戒の意識を払っていた訳ではないが、それでも日々の自己鍛錬によって他者の気配を敏感に感じ取る自分が、全く相手の気配に気付かなかった事に、京也は、少なからず驚いていた。
「華神、京也だな?」
 男は、無遠慮とも言える短い言葉で、京也へとその存在を尋ねる。
 訳が在って父親の姓である『神崎』ではなく、母親の姓である『華神』の方を名乗っている京也にとって、見ず知らずの人間から不躾にそう呼ばれる事は驚きであり、そして、それ以上に不快なことであった。
「貴方が誰は知りませんが、他者に名前を尋ねる時は、先ず自分の方から名乗るべきではありませんか」
 それでも京也は、相手に抱いた不快感を抑えて、礼儀に反しない言葉で何者かを尋ね返す。
 それに対し、男は何が可笑しいのか、京也を嘲るかの如くその表情に薄笑いを浮かべた。
 そして、男はその表情に浮かべた嘲りを侮蔑に変えて、徐に口を開く。
「これから、死ぬ人間に態々名乗る必要も無いだろう」
「ふざけるな!」
 相手から告げられたその言葉と態度に、京也は、憤慨して激しい一喝をぶつける。
 しかし、京也は、それと同時に、相手が冗談の類いを言っている訳ではない事を本能的に感じ取っていた。
 その理由は分からないが、目の前に居る男は、本気で自分の命を奪おうとしている。
 それも、全くの罪悪感を懐く事なく、寧ろ自分が当たり前の事をしているかの如くの様子であった。
 京也は、相手のその正気が恐ろしい狂気だと思い知らされ、
戦わなければ自分が殺される事を悟る。
 戦士として、戦いの意志を懐いた京也の判断と、それに対する行動は素早かった。
 京也は、油断無く相手の姿をその鋭い視線の内に捉えたまま、唯一の武器である長剣を拾い上げる。
そして、それを収める布袋の封を解くと、布袋ごと鞘を男に向けて振り放った。
 それは、正に相手の意表を衝く筈の行動であった。
 しかし、男は、軽い身のこなしでそれを難無く避ける。
「(口先だけでなく、かなりの手練か・・・)」
 相手に隙が出来たら一気に決着を着けようと狙っていた京也は、男の身のこなしにその技量が並でない事を見抜いた。
「中々、面白い。流石は、神崎征也の息子といった処か。では、今度はこちらの番だな」
 男は、反撃の意思を示して、身に着けていたロング・コートの懐へと、その手を差し込んだ。
 再び現れた男の手には、試験管に似た形状をした数本の小瓶が握られていた。
 拳銃か或いは短剣の類いが現れる事を予測していた京也は、その予想外の出来事を僅かばかり訝る。
「(猛毒の類いか・・・?)」
 心の内で更なる処を予測した京也だったが、それが的中していたとしても、この天候を考えれば、余程接近されなければ大丈夫だろうと判断した。
「我が忠実なる僕たちの爪牙に引き裂かれて、醜く死に逝くが良い!」
 男は残忍な笑みと共に死の宣告を告げて、手にしていた小瓶を足元へと落す。
 京也は、男が示したその行動に、小瓶の中身が細菌の類いの生物兵器で、相手が自らの生命を犠牲にしての道連れを狙ったモノかと一瞬は疑った。
 しかし、男が口にした『爪牙に引き裂かれて』という言葉に訝る。
 そして、その言葉の意味が、京也の目の前で現実を成そうとしていた。
 地面に落ちた衝撃により、粉々に割れ砕けた小瓶から、その中身である黒銀の粉がばら撒かれた瞬間、奇怪な光がそこに生まれる。
 その光が消滅した時、それに代わって鋭い爪牙を持つ異形の存在達の姿が在った。
「〈魔獣〉召喚の術・・・!」
 京也にとって、今、目の前で起きた現実は、決して未知の出来事ではなかった。
 しかし、それは飽くまでも、御伽噺に近い一族の伝承に語られるだけのモノの筈であった。
「お前は、《カイザー》の人間だな?」
「ほう、我々の組織の事を知っているのか。如何にも、私は、お前達の一族に理想を打ち砕かれてより、この数十年の間、絶えずお前達の一族への復讐を果たさんと求め続けてきた《カイザー》の者達の一人だ」
 京也は、返された男の答えに、自分が命を狙われた理由を悟る。
「俺の生命を奪い、一族が混乱した隙に、再び歪んだ野望を果たそうとする積もりか」
「『歪んだ野望』とは許し難い物言いだな。我等は真に優れた者達が、他の愚者達を支配する世界、正に完成されたその理想郷を築き上げるという崇高なる意志の下に集いし者達。そして、今、我々は、新たなる世界を統べる指導者となる存在を見つけ出した。その方の許で、我等は、再び嘗ての栄華を取り戻すのだ」
 男は、恍惚にも似た感情をその瞳に宿して、京也を見詰めながら、自らを絶対者とする傲慢な言葉を重ねる。
 そして、その言葉の余韻を楽しむように、一呼吸の時を置いた後、再びおとかの口が開かれる。
 その魂の根底に刻み込まれた、京也達一族に対する深き憎悪の眼差しと共に。
「新生《カイザー》の誕生を祝う生贄として、憎き我等が宿敵の末、華神京也よ、貴様の生命を我等が主へと捧げてもらおう」
「完成された理想郷だと!暴力で人々を支配しようとする暗黒の狂信者に捧げるほど安い生命は持ち合わせていない。貴様の御託は聞き飽きた。さっさとかかって来い!」
 京也は、男が自分と自分の一族に懐く身勝手な憎悪に憤り、
それを示す威勢の良い言葉と共に、手にしていた剣を構え直した。
 京也は、眼前に男を鋭く睨みながら、それと同時に相手の足許に従う魔獣達の能力を探る。
 その姿形は、大型の犬か狼に似ているが、鋭敏であろう肉体に備えた爪牙の鋭さは、金属を思わせる輝きを持っていた。
 「(数は全部で七体。爪牙を武器とした戦闘能力は、普通の獣を遥かに凌ぐレベルだとして、後はその知性の程か・・・)」
 目では測り切れない部分、それを天性の研ぎ澄まされた勘で探ろうとする京也は、異形の獣達が身に纏う異質の妖氣を感じ取り、改めてこれから自分が相手にしようとしている存在の危険さを知らされる。
 如何に相手が、〈魔獣〉と呼ばれる程の力持つ存在であろうとも、その数が一体か二体ならば、難無く倒せるだけの自身が京也には在った。
 しかし、目の前にいる魔獣達の数は、それを大きく上回り、更に敵はそれ以外にも存在していた。
 正に大きな窮地に立たされている京也は、それを打破するべく更なる思考を回らせる。
「(数を考えればこちらが絶対的に不利・・・。しかも、あの男が更なる召喚を行う可能性も十分に考えられる。ここで戦えば他の人間を巻き込むかもしれない。・・・となれば、ここで取るべき行動は唯一つだな)」
 京也は、自らが導き出したその答えに対し、不敵な笑みを浮かべると、それを実行するべく背後の森へと走り出した。
「逃がしはしない。追え、《ランヴィル》!」
 京也の行動からその意図を察した男は、足許に従う魔獣達を支配する力を秘めた〈従縛の魔名〉を呼んで、追撃を命じる。
 低く一声を吼え、死の猟犬と化した魔獣達は、京也を追って疾風の如く駆け出した。
「己、華神京也めっ!小賢しい真似を・・・」
 男は、京也が逃げた鎮守の森を睨んで忌々しげに呟く。
 その怒りの瞳には、血の色にも似た禍々しき紅の妖光が宿っていた。

 人の往来によって出来たのであろう獣道、お世辞にも良い道とは言えないそれを、大した苦も無く京也は走り続けていた。
 しかし、その京也を追って駆ける魔獣達の速度は、普通の獣のそれを明らかに上回り、徐々に両者の距離は縮まって行く。
「(やはり、逃げ切るのは無理か・・・)」
 相手の虚を衝く事に成功したので、若しかしたらと考えていた京也だったが、背後に迫る魔獣達の息遣いを感じ取り、それが甘い考えであった事を悟った。
「(ならば、残された手段はコレのみ!)」
京也は、自らが生き残る術を瞬時に計ると、それを己の意志へと決する。
覚悟を決めた京也の行動は早く、そして鋭かった。
 一瞬の間にして走る足を止めると、全くの躊躇も無く背後に在った魔獣達に目掛け、振り向き様の一撃を振り放つ。
 京也の放った横薙ぎの刃は、魔獣達の先頭に在った一体の身体を見事に捉えて、敵の群れへと弾き返した。
 斬り伏せられた仲間の姿をその双眸に映した魔獣達は、並の獣に勝る知性によって、目の前に在る現実へと恐れを抱く。
 その瞬間、追う者と追われる者という両者の関係が大きく逆転した。
 京也は、相手が怯んだその隙を逃さず、続く攻撃を放つ。
 最初の犠牲となって地面をのたうちまわる魔獣の存在を無視すると、京也は、最も近くにいた一体の頭部を唐竹割りで叩き潰し、返す一振りでその背後にいたもう一体に斜め上へと振り上げる形の斬撃を叩き込んだ。
 刃を潰されている武器であるが故に、京也の放つ攻撃は絶対の致命傷を敵に与えるまでは至らなかった。
しかし、その卓越した技量によって繰り出される正確無比の一撃は、餌食となった敵の再起を十分に封じるだけの威力を持っていた。
「これで、残るは四体!」
 大逆転を果たした事を言葉にする事で、京也は、自らの戦意を弥が上に高める。
 そして、それは対峙する魔獣達への威圧(プレッシャー)となった。
 仲間を次々に倒した京也への警戒心は、魔獣達をこれ以上無い程に慎重にさせる。
 四体の魔獣達の全てが、二歩三歩と後退り、京也との間に十分な間合いを取った。
 そんな、魔獣達の反応を見て取った京也の心に生まれたのは、勝利への確信では無く、敵を侮るなという自らに対する戒めであった。
 四体の敵の内で一体でも、仲間を倒された事に怒って襲い掛かって来るか、或いは、恐れを抱いて逃げ出すかしていれば、自分が確実に勝つ。
 京也は、そう戦いの状況を計っていた。
 しかし、相手はこれ以上無い位に慎重な構えを取り、自分はそんな相手へと絶対の攻撃を決める要素を持ち得ていない。
 状況は正に一進一退、否、正確に言えば、それまでに倒した敵も何時復活するか分からない以上、自分の方が遥かに不利。
 そして、あの謎の男の存在も決して無視できるモノではない。
 京也は、短い状況分析と思案の結果から、次に自分が取るべき行動の幾つかを導き出す。
 そして、一か八かの危険な賭けを避け、最も戦い易い状況を得る為、再びその場をから退く事を選んで駆け出した。
 先刻の大逆転に繋がる行動が幸いしたのか、魔獣達の追撃は極めて慎重で、走る京也は、そのまま鎮守の森の最奥にある草原へと抜け出る。
 敵の数が勝る事を考えれば、障害物の多い森の中で戦う方が良いのだが、京也は、その障害物が逆に自分の動きを封じる事になると考え、敢えて敵の動きも自由にするこの場所を決戦の地として選んだのであった。
 京也は、草原の中央に踏み入ると、油断無く剣を構えて敵の来襲に備える。
 京也を追って草原へと現れた魔獣達は、ゆっくりとした警戒の動きで、其々が京也の前後左右を囲む形に散り分かれた。
 改めて対峙の形を取った京也と魔獣達の間で、戦いの緊張が大きく膨らんで行く。
 一対四という自分にとって明らかに不利なその状況にありながら、京也の心には、不思議と何の恐れも無かった。
(『強くならなければダメよ。特に男の子はね』)
 嘗て、他の誰よりも慕った一人の女性から告げられた言葉が、ふと無意識に京也の脳裏に甦る。
「男は強くならなければダメ、か・・・」
 京也は、懐かしくも残酷な想い出の言葉を、自分の口で紡ぎ出して苦笑した。
 その想い出の主である久川静音との別れから、十年近い歳月が流れた今でも、自分は未だ強くなれずにいると京也は思っていた。
 しかし、今ここで己の弱さに屈したのならば、全ての未来(さき)が失われてしまう。
 そんな確信ともいえる想いが、京也の心には在った。
「弱い自分ならば、強くなれば良い。その為に、俺は、自らの身を〈神武〉の内に置き、修練を重ねて武を磨き、そして、剣を握って戦う事を選んだ。そう、何時如何なる時にも、自らの力で生きられる強さを求めて!」
 その言葉に示された〈神武〉の剣士たる想いが、そして、自らの剣に捧げた誇りが京也の心を満たす。
 京也にとって、剣の道こそが、物心ついた時に知った人間の世の醜さから、自分という存在を今日まで支え続けてきてくれたモノであった。
 想えば、この世界に生まれる以前より、自分は剣と武によって成り立つ魂を持つ存在で在ったのかもしれないと、今、京也は感じていた。
「戦いに生き、戦いに死す。それこそが、俺に与えられた宿命なのかもしれないな」
 京也は、遠き天空を仰いで語った自らの言葉に、酷く懐かしい戦いへの高揚感を覚えた。
 再び、生命の遣り取りをする相手である魔獣達へと戻された京也の瞳には、人間の領域を超えた純粋な意志の輝きが宿っていた。
 そして、それは、京也の戦士としての魂に新たなるモノが芽生えた事への証しであった。
 京也は、無為に瞼を閉じると、その手に握った剣の切っ先が地面へと触れる位に腕を下げた自然な構えを取る。
 それは他者が見れば、勝負を捨て諦めたとも思える構えであった。
 しかし、京也が身に纏う闘氣は、それまで以上に鋭く烈しかった。
 京也を取り囲んだ魔獣達は、本能的に危険を感じ取ったのか、その双眸に畏怖にも似た警戒の色を浮かべる。
「どうした、怖じ気づいたのか?」
 京也は、相手の反応を気配から察すると、威圧的ともいえる口調で挑発をした。
 それに対し、魔獣達は、怒りの唸り声を洩らすと、互いに視線を交し合って、其々が攻撃の意志を確め高めた。
『グウォッ!』
 狂暴な咆哮を上げ、鋭い牙を剥いた四体の魔獣が一斉に京也へと襲い掛かる。
 それは、正に一糸乱れぬ同時攻撃であった。
「異形の者達よ、その在るべき処へ逝け!」
 京也は、迫り来る魔獣達への一喝を咆えると、その瞳を閉じたまま正面の敵に向けて突進する。
 そして、その先にある敵の気配のみで、相手を自らの間合いの内に捉えた京也は、微塵の迷いを無く鋭い気合いと共に剣を薙いだ。
 京也の研ぎ澄まされた魂の想いに叶った一振りは、見事なまでに冴えある一撃となって、その敵である魔獣を退ける。
 閉じていた瞳を再び開いた京也は、次の瞬間には、無明の鋭敏な感覚によって、既に己の掌中のモノとしていた残り三対の気配を追って、続く攻撃へと動いていた。
 振り向いた勢いをそのまま剣に乗せ振り放たれた一撃によって、背後に在った一体を切り伏せた京也は、更に残る二体を反撃は疎か体勢を変える隙さえ許さない神速の連続攻撃によって続け様に屠る。
 冴えに冴えた京也の剣技は、正に〈神の武〉と呼ぶに相応しく、その姿はまるで神楽を舞っていたかの如く美しいモノであった。
 《神武流》の奥義の一つ、《炎舞》、烈しくも美しき剣の舞は、それを受けた敵の鮮血を以って、炎の如く彩られるとその名を由来される技であった。
 そんな、峻烈なる技を放って猶、京也の呼吸には一切の乱れも無く、その胸の鼓動は静かな律動を保ち続けていた。
「フッ、見事な腕だと誉めるべきか・・・」
 その声の主の出現が、〈神武〉の真髄に触れて、酩酊にも似た高揚感に心酔していた京也の魂を醒ます。
「否、我が僕達を退けた事で、更なる苦痛に苛まれた死を与えられる事となったその不幸を哀れむべきだな」
 その言葉とは裏腹に、男の表情には、特別な感情など存在していなかった。
「罪深き者達の血を受け継ぐ者、華神京也よ。我が《カイザー》の偉大なる力を示すべく、このファーロ自らが、貴様に最高の苦痛と恥辱に満ちた死を刻み込んでやろう!」
 ファーロと名乗った男は、その言葉通り自らが直接京也に手を下すべく、身に着けていた長外套(ロングコート)の懐から、武器である長鞭を取り出した。
 再び魔獣の召喚を行うか、或いは、今度こそ銃器の類いが現れる事を推測していた京也は、相手が用いようとしている武器が鞭である事を訝る。
「今、俺の戦いを見ていたのだろう。それとも、先刻の言葉は、伊達か酔狂だったのか?」
 京也は、目の前にいるファーロという男が、先刻の自分と魔獣達戦い振りを見ていながら、近接戦を仕掛けようとしているその意図を計るべく探りを入れた。
 その京也の言葉に、ファーロは、嘲りの鼻笑いを洩らす。
「私は、伊達も酔狂も好みはしない。貴様如きの相手なら、これで十分だ。それに、獣にも劣る愚か者を躾けるのに相応しい道具だろう」
 ファーロは、詰まらない事を言わせるなと、見下した視線を京也に向け、手にした長鞭を鋭く鳴らして、挑発的な戦いの意志を示した。
 そのファーロの自信に満ちた態度を見て、京也は、強い警戒心を抱く。
「(確かに、鞭の扱いに十分な心得が在るみたいだが、それ以外に何らかの奥の手を隠し持っている。それが、ヤツにとっての絶対的な自信となっているモノに間違いない)」
 京也は、相手が隠し持つモノの正体が分からない以上、迂闊に動くべきではないと判断した。
「そうか、俺は貴様と違い、伊達と酔狂を好む性質でね。敵が武器を持って目の前に立てば、如何なる理由があろうとも、全力を以ってそれを退ける。自らの戦いに誇りを求め、剣を以っては何者にも屈する積もりは無い。だから、剣を握った俺に手加減の一切を望むな」
 それは剣士である京也にとっての不可侵領域であり、《神武流》に於ける本質でもあった
 一切の禁じ手を廃する代わりに、何よりも己自身の武を律する事で、自らに恥じない戦いを貫く。
 その《神武流》の本質は、戦国乱世の世に生まれて以来、数百年の歳月を経て今に至るまで、形を変える事無く護り伝えられてきた。
 それ故に、《神武流》の真髄を求める者は、伊達と酔狂を好む嫌いがあった。
 《神武流》に於ける唯一の『禁じ』は、己の誇りを懸けた戦いに敗れる事のみ。
《神武》の名を受ける武の信奉者として、京也は、《神武》の誇りに懸けて、目の前に立ちはだかる敵、《カイザー》のファーロを倒し退ける事を誓う。
その迷う事無き戦いの意志は、京也の魂を再び鋭く研ぎ澄ました。
 京也は、相手が如何なる奥の手を隠し持っていようとも、必ずそれを打ち破ってみせると、自らの心に宿した戦士としての魂を高ぶらせて武者震いしていた。
「フッ、言わせておけば、減らず口を。貴様こそ、楽に死ねると思うな、行くぞ!」
 ファーロは、嘲りと侮蔑を込めて咆えると共に、宣言通りに長鞭を振り放つ。
 その意志に操られて、長鞭は、空を切り裂く鋭い唸りを上げて、京也へと襲い掛かった。
 純粋なる古武術の流れを組む《神武流》は、異国にて生まれた長鞭という武器への対処法に欠しいが、それに似た武器に対する術ならば、長い歴史の中で確立してきていた。
「(鎖を用いた武器の使い手に備えるのに近いか)」
 京也は、冷静に判断する心の内に違わず、既にファーロの攻撃を見切り、それに対する構えを取っていた。
 ファーロの用いる長鞭という武器の特性は、その攻撃範囲の広さと柔軟性を生かした自由自在な攻撃にある。
 相手との間合いを生かし、予測の困難な軌道を描く攻撃を繰り出す、それが長鞭を用いる者の戦闘スタイルであった。
 しかし、攻撃範囲が広く柔軟であるという長鞭の特性は、一度相手に攻撃を防がれれば、再びの攻撃へと転じる為に必ず隙が出来るという大きな弱点を持っていた。
 京也は、その長鞭が持つ弱点を最大限に生かした反撃の手段を心中に秘めて、敵の攻撃を迎え撃つ。
「ハァッ!」
 京也は、気合いの息を吐くと同時に振り放った剣の刃を、迫り来た鞭の先へと叩き込む。
 そして、狙い通りに攻撃の軌道を、自分の身体から逸らす事に成功すると、透かさず逆手に持ち替えた剣の刃で、伸び切った鞭を地面に押さえ込んだ。
 鞭を剣に絡め取れば、相手の武器だけでなく、自らの武器も封じてしまう事を考え、京也は、この方法を選んだのだった。
 狙いに違わぬ成果に、京也は、相手の攻撃の手段を完全に封じ込めたと確信する。
 若しも、相手が力ずくで鞭を引き戻そうとすれば、自分は一瞬で攻撃へと転じて、身体のバランスを崩したその懐へと勝利を決する一撃を叩き込めば良い。
 京也は、相手が鞭を手放し、別の攻撃手段をとる事も考えながら、慎重に反撃を仕掛けるタイミングを窺う。
 果たして、ファーロは、強引に鞭を引き戻す事を選んだ。
「素手となるよりもそっちを選んだか」
 京也は、相手の選択を知ると、その引き戻そうとする力が最も強くなった瞬間を見て、剣の込めていた力を解く。
 ファーロの望み通りに自由を得て勢い良く引き戻される鞭、しかし、それは京也の計算通り、身体のバランスを崩させる結果となった。
「ファーロ、覚悟!」
 京也は、剣を逆手から握り直すと、迷う事無く反撃のために相手の懐を目掛けて突進する。
 そして、防御の構えも取れず隙だらけとなった敵の懐を狙って、会心の一振りを放った。
「フッ、甘いな」
 京也の反撃を視線に捉えるファーロの口から、不思議なまでの自信に満ちた言葉が洩れる。
 だが、京也は、躊躇する事無く、渾身の力を込めた一撃を相手へと叩き込んだ。
 紛う事無き絶対の一撃によって、自らの勝利を確信した京也の心を、目の前に在る現実が裏切る。
 その完璧とも言える京也の攻撃は、ファーロの身体を捉える事無く、一寸程の手前で止まっていた・
「何故・・・?」
 疑問の言葉を洩らした京也は、自分の身体がまるで石になったかの如くに、硬直して動かせないという異変に気が付いた。
 そんな京也を見下すようにして、眼前のファーロが嘲笑を浮かべる。
「私は、手に入れたのだよ。何者をも屈服させる絶対の力をな。この力は、正に《神》の力だ!」
 ファーロは、優越感に酔い痴れた口調で京也へと、己の力への絶対的自信を言い放った。
 そこには、狂気にも似た何か得体の知れない危険なモノが存在していた。
 京也は、ファーロが内に宿すモノの異質さを本能的に感じ取り、背筋にゾロリとした嫌な感覚を覚える。
「(俺は、この男に恐怖を感じているのか?)」
 半ば無意識の内に、京也は、自らの身体を支配する異変の正体を探ろうと、自分自身の心に問い掛けていた。
 その脳裏に、ファーロに対する『恐怖』という答えを、一瞬は浮かべた京也だったが、それを直ぐに打ち消す。
 それは決して強がり等ではなく、純粋な感覚による否定だった。
 そして、京也は、その自らを支配している感覚の正体を、『嫌悪』であると推し量る。
「(そう、これは嫌悪だ。俺は、このファーロという男に、決して恐れを抱いてはいない。ならば、何故、身体が動かない?)」
 推測は確信へと変わり、そして、再び疑問へと至った。
 その答えを求め、自由となる視覚を働かせた京也は、一つの異常に気付く。
 自分を見下すようにしているファーロの瞳が、人間に在り得ないモノへと変わっていたのである。
 それは、血の色の如く紅く、何よりも禍々しき輝きを宿していた。
 京也は、ファーロの瞳に宿ったその『異質』に、既知感を覚える。
「まさか、《流血の邪神》の力か・・・?」
 自らの瞳に驚愕の色を浮かべ、京也は、正に信じられないモノを見たかの如く、独り言にも似た疑問の言葉を洩らした。
 《流血の邪神・ラルシュ》。
 京也にとってそれは、自らの一族に語り継がれてきた御伽噺の如き伝承に必ず語られる存在であり、その中でも異彩を放つ特異の存在の一つで在った。
 京也は、現実とは人間が抱く幻想以上に酷なモノである事を思い知らされる。
 〈人間〉が《神》と呼ばれる存在を目の当たりのするのだから。
「ほう、《ラルシュ》の存在までも知っているとは、流石は、奴等の直系にある者だな。しかし、その力の強大さまでは知り得てはいまい」
 自らの絶対的な有利を確信して、更なる絶望を与えるべくファーロが口にしたその言葉が京也を目の前の現実へと引き戻す。
「邪神の力を借りてこの身を縛り、優越感に浸るのも結構だが、己の力で戦えない人間が、《神》の威を借りて自らを絶対者とするのは少し浅ましくはないか?」
 そうファーロへと問い掛けの言葉を返した京也は、自らの身体の自由を奪ったモノの正体を知り、自然と自分の心の中で何かが冷めていくのを感じていた。
「黙れ!己の無力さを認められずにそんな口を叩くか・・・」
 ファーロの怒りを示すが如く、振るわれた鞭が烈しく京也の頬を打つ。
 打たれて裂けた京也の皮膚から、じわりと血が滲み出る。
 京也の肉体は受けた攻撃に痛みを覚えたが、しかし、その心は何も感じていなかった。
 そんな京也の心を、ファーロへと真直ぐに向けられた静かなまなざしが代弁する。
「《ラルシュ》の呪縛にその身の自由を奪われても、心までは屈服しないという積もりか・・・。良いだろう、ならば、最大の苦痛と恥辱を以って、貴様に絶望に満ちた醜い死を与えてやろう」
 ファーロは、京也の瞳に宿る意志の意味を感じ取ると、その身に抱いた憤りを晴らすべく、残酷な死の宣告を突きつけた。
「俺も容易く殺される積もりは無い。それに、他者の力を借りてそれに驕っているような相手に、決して俺は屈服したりはしない!」
 京也は、不敵に笑って己の意志を示す。
 それこそが、他者に踏み躙る事を許さぬ、京也の誇りの有り様であった。
「指先一つすら動かせぬ身で何をほざく。悔し紛れに減らず口を叩くな!」
 京也の反応にプライドを刺激されて、ファーロの感情は更に昂ぶり、それは振るう鞭に更なる力を加える。
 それに対し、京也の心は更に冷めたモノへと変わっていった。
「ああ、確かに悔しいさ。こんな風に自分の戦いも出来ない現実も、この程度の事で戦えなくなる自分自身の力無さもな!」
 京也はその言葉が示す通り、ファーロの振るう鞭に打たれ続ける中で、唯々己の無力さを悔しく思っていた。
 容赦なく加え続けられるファーロの攻撃に、肉体の限界が近付き京也の意識は少しずつ薄れ始めて行く。
「(俺は又、《魔力》という力の前に、己の無力さを思い知らされるだけで終わるのか・・・)」
 京也は、自分自身でも知らない心の深淵に在る記憶を甦らせ、烈しいまでの悔しさを覚える。
 それは、京也の魂へと深く刻み込まれた悔恨の傷痕であった。
 遥か遠い古の昔、自分は自らの誇りを、《魔力》という特異の力の前に為す術も無く打ち砕かれ敗れた。
 それは、魂に刻み込まれた傷痕が甦らせたモノ、京也が『華神京也』としてこの世界に存在する以前の記憶であった。
「(あの時の想いは、そして、あの願いは再びここで虚しく潰えるだけなのか・・・)」
 その記憶が齎した痛みは、京也の意識の別なる部分に新たなる記憶を甦らせる。
 それは、京也の『華神京也』としての過去に繋がる記憶であった。
「(俺は何時から、こんな風に自分を押し殺し、涙を流してなく事の出来ない人間になってしまったんだ・・・)」
 そんな抱いた想いに違わず、今、目の前に在る現実をどれ程悔しく思おうとも、京也の瞳から涙が流れる事は無かった。
 母親以上に慕った久川静音が突然の別れを告げた時にも、自分は決して泣く事が出来なかったことを京也は、確かな記憶として覚えている。
 『漢は容易く泣く者では無い』、硬派を語る者ならそう言って笑っていれば良い。
 だが、自分は違う。
 自分は、泣く事も出来なければ、笑う事も出来なかった。
 どんなに辛い時にも、素直に無く事も出来なければ、強がって笑う事も出来ない人間は、哀しく憐れな存在でしかない。
 京也の心は、そんな自分自身の憐れさに気付き、更に冷めて行く。
 一層の事、このまま自分の心が凍えて無くなってしまえば良いのにとさえ思ってしまう。
「(そう、心が凍えて空っぽな器になれたら楽なのに・・・)」
 京也は、虚ろな心を抱えながら猶、戦い事から逃げられない自分の意志を呪わしく思う。
 しかし、その一方で、今、自分の残されたこの意志だけは、決して失ってはならない事を京也は知っていた。
 『もう終わらせたい』、『まだ終わらせたくない』、二つの相反する意志と想いが、京也の心の中で互いに鬩ぎ合う。
 戦いによって生命を失う事を決して恐れはしない、しかし、それは望む戦いの末にならばであった。
「(戦いたい、力の限り思う存分に。そして、生命尽きるのは、戦い抜いた果てに力及ばなかった時だ)」
『強くならなくてはダメよ。特に男の子はね』
 戦いの意志によって覚醒した京也の心に、忘れえぬ想い出の言葉が再び甦る。
 そして、その言葉には続きが在った。
「『強くならなくてはダメよ。特に男の子はね。何時でも笑って、大切なモノを護れる位にね』、か・・・」
 静音が残した言葉を思い出して呟き、京也は笑った。
 それは以前の時に浮かべた苦笑とは違う、光り輝くような明るい意志に満ちた笑みであった。
 悔しさに泣く事が出来ないのならば、せめて笑っておこう。
 京也は、そんな想いを胸にして笑うことを選んだ。
 そして目の前に在る敵、《カイザー》のファーロとそれに力を与える《流血の邪神・ラルシュ》を倒し退ける為、京也は、自らの心とその身に背負う宿命から逃げる事無く、最後まで諦めずに戦い抜く事を心に誓った。
「恐怖と苦痛に耐え切れず、気が狂ったか」
 ファーロは、京也が笑っている事に気が付くと、歪んだ愉悦を浮かべてそう呟く。
「ならば、そろそろ決着を着けてやろう。忌まわしき者達の血を受け継ぐ貴様には、それに相応しい死に様を与えてやらんとな」
 暗き情念に満ちた言葉を吐いて、ファーロは、懐から出した小瓶より、再び魔獣達を召喚する。
「今度こそ大人しく我が僕たちの爪牙に引き裂かれて、醜い屍を晒すが良い!」
 ファーロは、最早揺らぐ事の無い自らの勝利を確信すると、残忍な笑みを浮かべ、京也へと最後の宣告を突きつけた。
 召喚された魔獣達は、身動きの出来ない京也を取り囲むと、牙を剥き出しにして好戦的な唸り声をあげる。
 絶体絶命の窮地を前にして、京也は、逃れられない死が近付いている事を意識する。
 だが、京也の心には、己の死に対する恐怖は無かった。
 京也がその心に唯一抱いたのは、《神武流》の剣士としての誇りを失う事無く、最後まで戦い続けるという意志のみであった。
 ファーロと《ラルシュ》、それに従う魔獣達が齎さんとする死に抗うべく戦い続ける事を誓った京也の意志。
 その峻烈なる闘志は心の刃となり、それを宿した京也の眼差しに鋭く睨まれた魔獣達は射竦められる。
 己の気迫に怯み踏み止まった魔獣達の様子に、京也は、《流血の邪神》の呪縛によって奪われた身体の自由をもどかしく思わずにはいられなかった。
「この身体さえ動けば・・・」
 身を焦がすような悔しさに、京也は、無意識にその唇を噛み締める。
 しかし、その唇の痛み以上に、京也の心に宿る戦士の魂が痛みを感じていた。
「(死を決して恐れはしない。だが、こんな形での終焉は嫌だ!)」
 自らの最後を意識する京也の魂が、切ないほどに誇りある死を渇望する。
 邪神の呪縛からの解放を、そして、その先にある望むべき戦いを求める京也の想いに、もう一つの『呪縛からの解放』を求める存在の想いが重なり合う。
『誰か私をここから解き放って・・・』
 京也は、心に響いたその声に、確かな意志の存在と、そこに込められた切実なる想いを感じ取った。
「そうか、アナタも今の俺と同じ様に自由を、その身を捕える呪縛からの解放を望んでいるのか」
 同じ想いの許、共鳴する魂の存在、それが己の懐にある《闘神の守護石》の中に宿っている事を悟った京也は、無意識にその存在へと語り掛ける。
 その時、京也の心は不思議なまでに穏やかな想いで満たされていた。
 そして、京也は望む、この世に真の意味での《神》と呼ばれる存在が在るのならば、非情なる力によって自由を奪われ苦しんでいるこの哀しき魂をその苦しみから解き放ってやって欲しいと。
 京也の想いは、温かな奇跡の光となって《闘神の守護石》へと注ぎ込まれた。
 奇跡の光を受けた守護石は、その身に宿した輝きを増し、内に封じ込められた存在は解放の力となる意志に目覚める。
『意志強き者よ。あなたの想いが私の力を呼び覚ましてくれました。さあ、私の名を、《真実の名》を以って解放の扉を開け放って下さい』
 その捕われし存在は、京也に凛とした響きを持つ声で語り掛け、最後の解放の鍵となる儀式を、《魂の契約》を求める。
 《闘神の守護石》の内に宿る者が示す意志の神聖さを、魂の共鳴により感じ取った京也は、迷う事無くその言葉に従う。
 そして、京也は、《魂の契約》を結ぶ為の言葉を紡ぐ。
『《大いなる慈愛を以って全てを守護する者》よ。我、《魂の契約》の誓いにより、その身を縛る呪いの力から汝を解き放たん』
 京也は、魂の共鳴によって得た知識に従い、《力持つ言葉》でその存在の《真名》を呼ぶ事により、《魂の契約》を完成させる。
 次の瞬間、京也の懐から《闘神の守護石》が中空へと飛び出し、清浄なる光を発して砕け散った。
 消滅した守護石に代わって、そこに現れたのは、華麗な戦装束を身に纏った《女神》であった。
『私の名は、《マナ・フィースマーテ》。《魂の契約》に従い、貴方を全ての災厄から護る守護闘神となりましょう』
 自らを《マナ・フィースマーテ》と名乗った《女神》は、京也に穏やかな笑みを向けて、その《聖約の誓い》を捧げる。
 目の前で起きた正に『神の奇跡』と呼ぶべき現象に、京也は驚き一瞬その現実を疑うが、《彼女》が身に宿す魂の輝きが紛う事無きその《神格》を語り示していた。
 京也は、正気を取り戻すと、自らの《守護者》となった存在から向けられた笑みに応えるように、その表情へと微笑みを浮かべる。
 《マナ》は、京也に向けていた視線をファーロへと移し、その表情を凛としたモノに変えた。
『邪悪なる存在の力を操り、大いなる理に逆らい乱さんとする者よ。我が守護剣の前に疾く退け!』
 戦いを宣誓する《マナ》の意志に従い、その御手に守護の力を具現化させた剣が現れる。
『永き封印によって、その力を失っている貴様如きを恐れるモノか!我が力の前に退き消滅するのは貴様の方だ!』
 ファーロの身体を器として宿る《流血の邪神・ラルシュ》は、《マナ》に対し烈しく咆えて、その紅き邪眼が持つ呪縛の魔力を放った。
 その不可視の魔力が縛めの鎖となって、京也と同様に《マナ》の身体の自由を奪う。
「さあ、我が僕たちよ。その女神とやら共々、華神京也の生命と魂の全てを喰らい尽くすが良い!」
 主たる者の命令に従い、魔獣達が京也達へと襲い掛かる。
 猛る魔獣達の動きは、先刻までの怖じていた姿が嘘の様に、素早く、そして、鋭かった。
 しかし、それに対峙する《マナ》が身に宿した戦いに意志は、魔獣達の殺気を遥かに凌ぐ覇気をそこに従えていた。
『禍々しき牙の獣達よ。滅びの海へと還れ!』
 《マナ》は、その言葉へと込めた気合いの力で、身体の自由を奪っている《ラルシュ》の呪縛を断ち切ると、身を翻すようにして繰り出だした連続攻撃で、次々に魔獣達を薙ぎ倒して行く。
 強き意志を以って美しき剣技を奮う《マナ》の姿に、京也は無言のまま見蕩れていた。
『我が主よ。今、邪悪なる魔力の縛めより解き放ちます』
 《マナ》は、魔獣達を尽く退けると、そう告げて振り下ろした守護剣で、京也の身体を絡めている《ラルシュ》の魔力の鎖を断ち切った。
 自由を取り戻した京也の瞳に、歓喜にも似た闘志の炎が燃え上がる。
「ありがとう、《マナ・フィースマーテ神》。これで、望み通り、この男との戦いに決着が着けられる」
「莫迦め、まだ己の力が《ラルシュ》の力に及ばぬ事が分からないのか!その愚かさを以って、死地に赴くが良い!」
 ファーロは、猶も自分と戦おうとする京也の愚を嘲笑い、その紅き瞳に邪悪な殺気を宿した。
『あの者の言うように、《流血の邪神》の力は強大です。どうか、ここは私に任せて下さい』
 《マナ》は、邪神の力を操るファーロという異能者に、人間の身で戦いを挑まんとする京也の無謀に近い行為を止めるべく、その間へと割って入り背中で説得の言葉を告げる。
「確かに、ここは貴女に任せ、俺は退くのが一番の得策だろう。しかし、ここで退いたら、俺はこれから先、全ての戦いから逃げて生きて行かなくてはならなくなる。そして、今の俺にとって護るべき大切なモノは、この生命ではなく《神武流》の・・・否、唯一人の剣士としての誇りのみ。だからこそ、俺は今ここで決して退く訳に行かないんだ」
 《マナ》へと応える京也の言葉、それは何処か独白めいており、そして、何故か悲愴ともいえる哀しい響きを持っていた。
『我が主よ。貴方の想い、能く分かりました。貴方の気高き誇り持つ魂に報い、彼の者の魔力に抗するべく、我が守護の剣を託しましょう』
 《マナ》は、京也が示した意志の言葉を真直ぐに受け止め、その戦いの助けとするべく、自らの守護剣を差し出す。
 しかし、京也は、それを受け取る事を拒んだ。
「ありがとう。しかし、奴を倒すのに、その剣の力を借りるまでも無い。唯、この剣さえあれば十分だ」
 京也は、そう告げながら《マナ》の脇を抜けると、自らの手にある剣を武器に、改めてファーロと対峙した。
「愚かさもそこ迄いけば、滑稽か、或いは憐れと言うべきだな。華神京也よ、愚かに過ぎた貴様に、勇気と無謀は違う事を教えてやろう。その生命と引き換えにな!」
「ならば、《カイザー》のファーロよ。《流血の邪神》が持つ力に溺れ驕るお前に、《神武》の真髄を以って、本当の強さというモノが如何なるモノであるかを示してやろう」
 昂ぶるファーロとは対照的に、京也は、悠然とした態度で自らの内に宿した意志を示す言葉を語り、これから始まる戦いの為の構えを取る。
 京也の背に控える形となった《マナ》は、自分の申し出を断わった京也の決断に少なからず驚きながらも、彼が示す意志の中に勇気や無謀という範疇の次元を超えた領域に存在するモノを感じていた。
「行くぞ、ファーロ!」
 京也は、堂々たる威勢に満ちたその言葉と共に、自らの意志を静から動へと転じて、ファーロ目掛けて突進する。
「フッ、愚かな・・・。死ね!」
 猪突猛進の構えで突進して来る京也を嘲り、ファーロは、邪神の力を持つ紅の瞳を京也へと向けた。
 そのファーロの邪眼を睨み返す京也の瞳には、微塵の恐れも無く、其処に在るのは自らの勝利を信じる意志のみであった。
「無駄だ!」
 京也は、鋭い気合いを以ってそう言い放つと同時に、自らの身体を素早く翻す。
 ファーロと、そして、《マナ》の両者が驚きに目を見開く。
 そして、次の瞬間、両者の感情は、『驚き』から相反するモノへと変化した。
 それは、ファーロにとっては焦燥、《マナ》にとっては歓喜であった。
 京也は、正に神速、そして神技と呼ぶに相応しい身のこなしで、ファーロが操る邪眼の魔力を回避し、一気に間合いを詰める。
 文字通り、目にも止まらぬ速さで、そのままファーロの身体を攻撃の間合いに捉えた京也は、裂帛の気合いを吐いて剣を振り放った。
「甘いわ!」
 ファーロは言い放ち、超人的ともいえる動きで後ろへと退き、京也の攻撃の餌食から逃れる。
「貰った!」
 空しくも空を切る京也の剣を眼前に掠め見ながら、ファーロは、再び《ラルシュ》の魔力を以って、京也を呪縛しようと邪眼を発動させる。
 渾身の一撃を既の処で回避されながら京也の表情には、焦りの色は一切無かった、
 ファーロは、京也の平静を訝るも自らの勝利を確信していた。
 だが、京也が示した次の一手が、そのファーロの確信を叩き壊す。
 それは、余りにも全ての想像を裏切る程に意表を衝いた攻撃であった。
 京也は、唯一の武器である長剣を回避された攻撃の勢いのままに地面へと叩き刺すと、その柄から放した拳をファーロの懐深く叩き込む。
 その拳は、強烈な一撃となってファーロの内臓を抉った。
 そして、京也は、前にのめり倒れ込む相手の身体に、後転の要領で繰り出した鋭い蹴撃を放ち、更なるダメージを加える。
「これで終わりだ!」
 京也は、蹴撃で浮いた自らの身体が地面に着くと同時に、その手を伸ばして長剣を引き抜くと、受けたダメージの重さに耐え切れず膝を突いたファーロへ止めの一撃を放つ。
 これで戦いの決着が着くと確信した京也へ、ファーロが窮地からの脱出手段として、魔獣を封じた小瓶を投げつけた。
「くっ・・・!」
 京也は、敵の反撃を見て取ると、悔しさに呻き声を洩らしながら、振り放つ一撃を止めて素早く後ろに退いた。
 召喚によって現れた魔獣達の全てを京也と《マナ》の両者が退け終えた時、そこには既にファーロの姿は無かった。

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